
アフガニスタンは中央アジアに位置し、ユーラシア大陸の東西交通路とインドを結ぶ「文明の十字路」の要地でした。歴史的には世界征服者からの侵略を常に受けてきたのです。アフガニスタンは彼らにとって、インドの伝説的な財宝を手に入れるための通り道だったのです。アフガニスタンの人々は自国の伝統、習慣、宗教、文化を非常に大切にしており、他国の者がアフガニスタンの地に足を踏み入れることを決して許しませんでした。アフガニスタンに侵略しようとする者、通り道として足を踏み入れようとする者に対して、激しく抵抗し、常に戦いを挑んできたのです。そのため、アフガニスタンは昔から好戦的で、勇敢、自由を愛する人々として知られてきました。これらの戦いによってアフガニスタンは、人的損害だけでなく、毎回経済が麻痺状態に陥るほどの損害を受け、農業の基盤であるダム、地下水路(カレーズ)なども破壊されてきました。しかし一方、これらの戦いは悪いことばかりでなく、時には、他国の異文化とアフガニスタンの交じり合って、新しい文化を作り出したりもしたのです。
古代書物のヴィーダスとアヴェスタによると、紀元前3,000年、現在のBALKH(現在のマザリシャリフ地方)はアリアナと呼ばれ、アーリア人種(現在のパシトュン人とタジク人)が住んでいました。彼らは支配地域を、アム川から東はインドまで、西はペルシャまで広げていきました。アリアナには多くの征服者が攻めてきました。中でも、紀元前329年のアレキサンダー大王の征服で、アフガニスタンの西側諸国への扉が開かれたのです。その後、紀元前260年にはインドのオシュカ家の侵攻によって、アフガニスタンに仏教がもたらされました。2001年3月、タリバンによって破壊されたバ−ミヤン仏像も、オシュカ家の流れを汲んだものでした。そして、このギリシャ文化とオシュカ家のもたらした仏教文化が交じり合い、ガンダーラ様式が生まれたのです。このガンダーラ様式時、アフガニスタンは仏教を信仰していました。
その後7世紀初めには、アラブがイスラム教を広げるためにアフガニスタンに入ってきました。イスラム教は簡単にアフガニスタン人に受け入れられ、そしてアフガニスタンですばらしい文化、文学、数学、天文学、哲学、化学、美術、特に絵画と書道といったものを築きあげたのです。
13世紀には、モンゴール帝国のチンギスハーンが攻め入り、アフガニスタンに存在するもの全てが焼き払われ、アフガニスタンは灰と化してしまいました。
1747年から1773年、アフマッド・シャーが国王として君臨していた時、アフガニスタンの占領地は、北部はタシュケント、ウズベキスタンから東はカシミール、ペシャワール、西はケルマン、シスタン、南はデリーまでありました。
次の国王テムルシャーは、とても平和的な人物で、父はアフマッドシャーの占領地を治めはしましたが、さらに拡大することはなく、彼が行った重要な事と言えば、首都をカンダハールからカブールに移したことくらいでした。
テムルシャー死後、彼の35人の息子たちの間で権力争いが起き、アフガニスタンは戦国時代を迎えたのです。今まで権力を誇示し、支配地を拡大してきたアフガニスタンは、国内の争いによって衰退し、征服して国々を手放すことになり、逆に他国からの侵略を受けることになったのです。中でもイギリスは3回もアフガニスタンに侵略をしてきました。(当時イギリスでは産業革命が起こっており、他のヨーロッパ諸国、特にフランスとの競争でインドでの市場拡大と、原料の確保、そして低賃金労働者の確保を目指していました。)
この時期、アフガニスタン国内で権力闘争をしていたサドザイ派のショシェジが、アフガニスタンでの権力を握るためイギリスに協力を求め、アフガニスタンにイギリスが入るチャンスを作ってしまったのです。これが1834年から1841年に起きた第1次イギリス・アフガニスタン戦争です。この戦いでイギリスを追い出したにも関わらず、アフガニスタンは、パンジョッブと、バルーチ地方を手放すことになりました。
第1次イギリス・アフガニスタン戦争で敗れたイギリスは、中央アジアでの権力確保としてアフガニスタンを支配下に置くことを不可欠とし、1878年から1880年に再度アフガニスタンに侵攻してきました(第2次イギリス・アフガニスタン戦争)。このときイギリスは友好的な態度でアフガニスタンに近づき、最終的には外交権を取り上げ、イギリスの保護領にしてしまったのです。
1919年、アマーヌッラー・ハーンが王位に就くと、彼はジハードを発してインドへ攻め込み、イギリス保護領からの独立を達成し、外交権を回復しました(第3次イギリス・アフガニスタン戦争)。アマヌッラーはイスラムを基盤とした国家を作ることを約束しましたが、実際にはイスラムがアフガニスタンを後進国にさせていると考え、西洋思想を取り入れた国最初の憲法を作り、近代国家を作ろうとしました。その中の一つの改革として、彼は国初の女性のための学校を作り、参政権も与えたのです。しかし、実際に彼の考えが実施されると、反イスラム的であることへの不満が広がり、特にイスラム聖職者からの反発が高まりました。そしてその聖職者たちの陰謀によって、アマ−ヌッラーは王の地位を奪われ、イタリアへ亡命したのです。
次の王はナーデル・シャーでしたが、彼は権力を持つ聖職者の指示を得るため、女性の学校を廃止し、男性の前では全身を覆い隠すようヒジャーブ(ブルカ)の着用を命じたのです。彼はアマーヌッラー王一族に暗殺され、その息子ザヒール・シャーが王位に就きました。ザヒール・シャーが王位に就いてからの30年間は、アフガニスタン国内が最も安定していた時期でした。しかし近代化への歩みがみられず、73年、国王の従兄弟であるダウド元首相が無血クーデターでザヒール・シャー国王を追放し、王政から共和制に移行して大統領の地位に就きました。ダウドはアフガニスタンの急進的な近代化を目指していきましたが、外交政策が旧ソビエトから右翼勢力のイランへ変わっていくと、親ソ志向である軍部との対立を招いていき、1978年4月、軍事クーデターによって、ダウド大統領はじめ一族30人全員が殺害されたのです。
この後タラキ政権、アミン政権と変わりますが、どちらも弾圧的・反イスラム的な政治で、反対する者は全て刑務所に入れ死亡させていました。そのため、各地で反政府活動が起こり、国内は事実上内戦状態にあったのです。またソビエト離れの傾向が強まると、弾圧的な政治に対して新ソ派のカルマルがソビエトに軍事介入を要請し、大統領の座に就いたのです。
その後政権はナジブラへと移りますが、89年のジュネーブ協定に従ってソビエト軍が撤退すると、強力な後ろ盾を失ったナジブラ政権は、92年の反政府ゲリラ、ムジャヘディン勢力(現、北部同盟)によるカブール陥落によって崩壊したのです。
その後、アフガニスタンではムジャヘディン各派による主導権争いが始まり、今までに見られなかったほど激しい、新たなる内戦が繰り広げられたのです。4年間にわたるムジャヘディン各派の主導権争いによって、首都カーブルだけで5万人以上が殺されました。
1996年、パキスタンから突如現れたタリバン(神学生)によって、カーブルが陥落。パキスタンからの支援を受けていたタリバンは、その後も勢いに乗ってアフガニスタンの約90%を支配したのです。このタリバンによる支配は、アメリカでのテロ事件が起きるまで約5年続きました。